カネ余りで世界的インフレ加速の恐れ
2008/06/20
スペインやフランスでは、数万人のトラック運転手がガソリン価格高騰に抗議するストライキを行い、各地の幹線道路や国境付近を封鎖するなどした。エジプトでは、小麦粉の補助金削減に抗議した群集が道路を封鎖し、警官隊と衝突。さらにインドのカシミール地方では、燃料費高騰に数千人の公務員が抗議デモを行い、警官隊が放水銃で応戦する騒ぎとなった。
これらは世界中で大きく報じられているニュースのほんの数例にすぎない。食料品や燃料の価格上昇に抗議する声は高まる一方だ。
世界経済は米国の信用収縮の後遺症に苦しみ続けているが、新たな病気が急速に蔓延し始めた。1970〜80年代の慢性病“インフレ”が突如、すさまじい勢いでぶり返してきたのだ。現在、欧米諸国での価格高騰に注目が集まるが、困ったことに新興市場諸国でもインフレ率が急速に上昇し始めている。
例えば、中国の5月のインフレ率は7.7%。4月の記録的な8.5%から減速したものの、昨年上半期の3.2%と比べ大きく上昇している。昨年8月には4%にも満たなかったインドも、5月には8%を突破。ロシアでは、この1年間で7.6%から14.3%とほぼ倍増した。
小規模新興市場国のインフレ問題はさらに深刻だ。現在、ウクライナやベネズエラではインフレ率が30%を超え、ベトナムでは25%に達する。サウジアラビアでは過去27年間で最高の10.5%。「状況はかなり深刻」と語るのは、米シンクタンク、ピーターソン国際経済研究所(ワシントン)のアンダース・アスルンド上席研究員。「インフレ問題は各国共通の頭痛の種だ」。
表面的には、コモディティー(商品)価格の上昇が、このところのインフレ率急伸を招いているように見える。注目を集める原油価格や穀物価格ばかりでなく、金属価格や乳製品などの食料品価格も急騰している。こうした価格高騰の原因には、投機的な売買や凶作、ドル安などが挙げられる。だが、これだけ多岐にわたるコモディティー価格の同時高は、単なる“偶然の産物”なのだろうか。
答えはおそらく“ノー”だ。実際、多くのエコノミストが、この現象を世界的なインフレ傾向の表立った証拠と見なすようになっている。しかも、かなり根が深く懸念すべきものだという。
米ハーバード大学経済学部の教授で、国際通貨基金(IMF)の前主席エコノミストのケネス・ロゴフ教授は、「この世界的なインフレ傾向は一時的なものとは思えない」と語る。今回のインフレは、過去の大型インフレとは異なると警鐘を鳴らす。特定のコモディティーの不足ではなく、世界的な“カネ余り”がその元凶だという。「悲惨なことに、投資家は自分の身に降りかかりつつあることに全く気づいていない」。
世界的に信用収縮が広がる中、資金があり余っているという主張は意外に思えるかもしれない。だが、一見矛盾しているかのようなこの主張には明確な根拠がある。
米国を中心とする先進国では、信用収縮の影響で深刻な景気減速が懸念されている。一方、世界的な物価動向は、中国やインドなどに代表される新興市場諸国の影響力がますます拡大。新興市場諸国では、信用収縮の影響はほとんど見られない。むしろ、通貨供給量(マネーサプライ)の急増により、経済は現在も猛烈な勢いで成長を続けている。
新興市場諸国の中央銀行当局者やエコノミストからは、インフレに対する危機感がさほど感じられない。物価の上昇は局所的に制御できない国際的な影響力が原因で、コモディティー価格が落ち着けばインフレ率も落ち着くと主張する者も多い。
インドのエナム証券のエコノミスト、サチン・シャクラ氏は、国内の物価上昇率の8割は穀物や金属、原油といったコモディティー価格の上昇が原因と主張する。「インド政府が過剰反応しないかが気がかりだ」。
とはいえ、米連邦準備制度理事会(FRB)の最近の利下げにより、世界的にインフレ問題は深刻化する傾向にある。多くの新興市場国の通貨は事実上ドルに連動しており、米国が利下げすれば金利に上限が設けられた格好になるからだ。しかも、コモディティー価格の高騰が広範に及ぶ問題の一端に過ぎないことを示す証拠が増加している。
スイスの投資銀行UBSによれば、新興市場諸国は全般的にコアインフレ指数(食料品とエネルギーを除く物価上昇指数)が上昇傾向にある。中南米6.8%(前年同月5.0%)、アジア4.1%(同2.4%)、東欧8.3%(同5.4%)と、それぞれ前年同月を上回る。
「世界のインフレ動向で最も憂慮される点は、コアインフレ率と賃金インフレ率の上昇傾向だ。この傾向が顕著に見られるのは経済発展途上国圏。圏内各国のいまだに流動的な金融政策や金融情勢の引き締めが現在の緊急課題だ」と、UBSのエコノミスト、アンドリュー・ケイツ氏は指摘する。
“低金利状態”がインフレの元凶の1つである証拠はいくらでもある。中国やインド、ロシアなどの多くの新興市場国で、指標となる実質金利はマイナス。例えば、中国の5月のインフレ率7.7%に対し、中国人民銀行(中央銀行)の同月の主要貸出金利は7.47%に抑えられたままだ。「BRICs」4カ国(ブラジル、ロシア、インド、中国)中、金利引き締め政策を取っているのは、実質金利が記録的高水準にあるブラジルだけ。だがそのブラジルですら、インフレ懸念はむしろ高まっている。
UBSの指摘によれば、過去5年間、中南米、アジア、東欧の金利は名目国内総生産(GDP)の成長率を常に下回ってきた。金利が名目GDPに等しいか上回っているのが常態だった1990年代とは対照的な状況にある。
実際、新興市場国の指標的金利から金融状況を正確に読み取るのは困難だろう。だが、ほかに信用できる指標も見当たらない。ここ数年、中国やロシア、ペルシャ湾岸諸国などは巨額の経常収支黒字を計上してきた。外貨準備高は記録的水準にまで積み上がっている(現在の準備高は中国が約1兆7600億ドル、ロシアは約5400億ドル)。エコノミストの多くは、これらの国の通貨レートが割安との明白な結論に達している。外貨準備高の増加により、インフレの温床となるマネーサプライは増大中だ。
新興市場諸国の中央銀行は高まるインフレ問題を警戒し始めている。最近、金利水準の是正に乗り出し始めた銀行も多い。中国人民銀行は6月7日、銀行の預金準備率を異例の大幅の1.0ポイント引き上げ、17.5%に改定した。ロシア中央銀行も6月10日、2週間で2度目の利上げを敢行。リファイナンス金利(公定歩合に相当)は0.25ポイント上がり、10.75%となった。
各国中央銀行の是正措置により、インフレが制御不能になりかかっているというエコノミストの懸念は幾分解消されてはいる。だが、金融引き締め策が実施されれば、新興市場諸国の経済成長は鈍化することになる。既に停滞傾向にある世界経済の見通しは暗い。
見通しを暗くするさらに根本的な理由もありそうだ。現在の世界的なインフレ傾向からは、新興市場諸国の長い好景気が終焉を迎える危険性も見え隠れする。生産能力は頭打ち。資源にも限りがある。今後、低成長および高インフレ時代が長期化するのは避けられないかもしれない。
「長期的な景気循環ではよくあること」とアスルンド氏。「新興市場国はかつてない好景気の真っ只中にある」。政策責任者はそうした状況下で慢心しがちだと同氏は指摘する。
これは実に危険な兆候だ。新興市場諸国の中央銀行は長年、驚異的な成長を遂げる状況に慣れきってしまっている。時代の変化を認めることに抵抗するかもしれないのだ。
「現在の問題は、小幅な景気減速を避けようと、中央銀行が利上げを躊躇していることだ」と、ロゴフ教授は指摘する。「だが、後になってインフレを抑え込もうとした時、そのつけが回ってくるかもしれない。80年代、インフレを抑制するには10年を要した。中央銀行の対応が遅れれば、またも窮地に陥る羽目になる」。


















